沖縄電気軌道(戦前の路面電車)

沖縄電気軌道→沖縄電気 大正3年~昭和8年
戦前の那覇には鉄道があり、崇元寺から首里を経て与那原まで通っていたと聞いた事があり、長らく私はそう信じこんでいた。首里から与那原は山越えのルートであり、少しおかしいと感じていたが特に調べる事も無く時が過ぎ去っていった。最近になり、この時の話を思い出し調べてみるとかなり違っている事が分かった。どうやら軽便鉄道の与那原線と路面電車の沖縄電気軌道をごっちゃにして説明されたようである。
沖縄電気軌道は那覇港の通堂から首里山川までの路面電車であった。営業していた期間は短く大正3年から昭和8年までの20年間である。軽便鉄道と違い戦火に消えた訳では無く、バス路線との競合で営業不振になり廃線に至っている。当時の路面電車は電力会社が経営することが多く、沖縄電気軌道は開業の翌年、関連の沖縄電気に吸収合併されている。なお、首里の都ホテルの裏側には遺構である橋脚が残されている。
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沖縄電気軌道経路
路線の停留所を列記すると 通堂ー渡地前ー見世の前ー郵便局前ー市場ー松田矼ー大門前ー久米ー西武門ー裁判所前ー若狭町ー潟原ー兼久ー泊高橋ー泊前道ー崇元寺ー女学校前ー坂下ー観音堂ー首里 である。現在では馴染みの無い地名も多く、今でも分かる地名は通堂、久米、西武門、若狭町、泊高橋、崇元寺、観音堂、首里だけである。
渡地(ワタンジ)は明治橋が出来る以前の渡船場で対岸の小禄に通じていた。民話の「奥武山のみみず」には渡地の地名が出てくる。
見世 は「親見世」の事で琉球国の国庫であった。旧山形屋の商品管理部とその北の一部がその場所とされている。
郵便局 現在の沖縄郵政管理事務所のところにあった郵便局と思われる。大正時代の5万分の1の地形図でも同所に郵便局のマークが記されている。
市場 東町にあった久茂地川前の市場
松田矼 「まつだはし」と読むが現在の泉崎橋南側にあった当時あった橋のことである。古い地図で泉崎橋の位置を見ると孔子廟前付近にあり現在の泉崎橋より北側に有ったようである。最近の調べでは現泉崎橋の100mほど南に橋があった。
大門(ウフジョー) 久米大門のこと。旧市役所前の通りは「大門前通り」と呼ばれた。大門前通りは戦前那覇でも有数の繁華街であった。
裁判所 は若狭大通りに面した旧那覇中央郵便局の跡地に出来た労働基準監督署がそれに該当するようである。バスの停留所は久米郵便局前となっている。地形図でも裁判所の記号が見てとれる。
潟原 那覇中の東側の旧地名。この付近の東側は塩田が広がっていた。前島の飲み屋街は地形図で見ると海の中になっている。
兼久 泊高橋の南側で国道58号線付近の旧地名。当時の地形では泊から岬状に細長く延びた形で両側は海となっている。
泊前道 崇元寺方向からみて泊の手前。
崇元寺 崇元寺の向かい側に車庫と軌道部事務所があった。
女学校 大正10年発行の5万分の1の地形図には安里付近に女学校が記載されている。これを現在の地図を重ねてみると栄町リュウボウのところにあったと推測される。学校名は県立第一高等女学校と思われる。悲劇的な最後を遂げたひめゆり女子学徒隊の通っていた学校。ひめゆり通りやひめゆり橋はそれとの関係から付けられたのだろうか。
坂下 首里から坂を下りきったところ。大道東側。現在、首里からの道は坂下通りと名付けられている。
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