テーマ:むかし

ペリー

ペリー提督はアメリカの海軍軍人で1853年7月(嘉永6年6月)日本を開国させようと東インド艦隊を率いて浦賀に来航し大統領の親書を幕府に提出した。翌年江戸湾に再び来航し横浜で日米和親条約を結んだ事は良く知られているが浦賀に来る前に実は沖縄にも立ち寄っている。那覇市の小禄にはペリーと言い慣わしている地域が今でも残っている。始めて沖縄に行った…
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沖縄 蚊の始まり

沖縄にはとても変わった名の坂がある。その名はガジャンビラと言う。ガジャンは「蚊」を意味しビラは「坂」を意味する方言である。ガジャン坂、直訳すれば蚊坂である。場所は那覇の小禄から豊見城村に行く坂で小禄のがじゃんびら公園内かその付近の坂と思われる。この坂の名前には言い伝えがある。昔、沖縄から中国へ行った人が中国でブンブンと歌を歌う珍しい虫を…
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沖縄 昔のトイレ

水洗トイレ以前の旧式トイレは沖縄、本土共になかなか見ることも体験することも出来なくなってきている。和式のトイレの場合は山の奥のキャンプ場などにわずかに残っている。琉式のトイレは離島などでも水洗化が進み、現在でも残っているのか確認していないので分からない。私は70年代の初め、北大東島の農家に滞在した時に、使ったのみでその後、残念ながら見て…
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石敢當を川崎で見つける

石敢當沖縄の街には石敢當が溢れている。本当に何処にでもある感じである。探し出すのに苦労はいらない。石敢當とは何であるか説明すると、中国から伝わった風習で丁字路や三叉路の壁に置かれているもので魔よけとしての意味がある。何でも魔物は曲がる事が出来ず突き当たりから家に入ってくるという。そこでそれを封じるためにこの石が置かれるのである。石敢當・…
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沖縄のむかしみち (祟元寺橋から渡地まで)

今の長虹堤大正10年発行の2万5千分の1の地形図 A 旧安里橋から続く道である(自販機のうしろ)。祟元寺橋は手前の道の右側にある。 長虹堤跡の道。突き当たりが祟元寺橋。 B 現在の長虹堤を歩いてみる。ここがかつて海中道路であったとは信じられないほど何も残っていない、ごく普通の道路である。唯一名残りを見せるものが民話「七ツ墓」に登場…
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那覇 泉崎橋

石造りの旧泉崎橋は旧孔子廟前に有ったと言われている。現在の泉崎橋の位置とは違い商工会議所隣りの孔子像の前当たりの位置に相当する。久茂地川も戦後の河川改修で変化しておりこの辺りではやや泉崎寄りを流れていたようである。長虹堤につながる旧孔子廟前の道は久茂地川の下になっている。この橋は琉球八景の「泉崎夜月」としても描かれておりここでは葛飾北斎…
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識名園

識名園は18世紀末に琉球王家の別邸としてつくられ、首里城の南にあることから南苑とも呼ばれた。中国からの冊封使の接待にも使用された。敷地は7000坪にも及び園内には池が配され池の周りを巡る「回遊式庭園」となっている。昭和16年(1941)に国の名勝に指定されたが先の大戦により壊滅的な破壊を受けた。昭和50年(1975)から整備が進められ、…
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辻の通り

昔の辻の通りには辻三大路の後道(クシミチ)、中道(ナカミチ)、端道(ハタミチ)などが有り、この三大路をスージと呼ばれる15の小路が碁盤の目のように結んでいた。北から後道、中道、端道と交差する順番で紹介すると最初は天使館(テーシクヮン)小路、火車(ヒーグルマ)小路、悌梧木(デイゴギー)小路。二番目のスージはグーヤーヌチビ小路、定規…
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沖縄そば むかし地図

沖縄そば 沖縄そばの歴史は支那そばの伝来と共に始まったようである。それが沖縄独自の発展をとげ、今日の沖縄そばになったのである。沖縄そばがまだ支那そばと呼ばれていた頃の店を大正8年の地形図に載せてみた。 大正8年測図 2.5万分の1 地形図から 始めて那覇に出来た店は福永義一氏の「支那そばや」であった。大阪から清国人の…
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むかし那覇2

那覇 薩摩藩在番奉行所 薩摩藩在番奉行所跡の史跡碑 大正9年までの沖縄県庁 解説文より 在番仮屋(ざいばんカイヤ)、大仮屋(ウフカイヤ)ともいう。 1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年までの250年間、薩摩藩による琉球支配の拠点となった。在番奉行や附役(つけやく)など約…
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むかし那覇

那覇 久米大門 久米村(くにんだ)には14世紀後半から中国・福建から移り住んだ人達が定住していた。その久米村の入り口に建てられたのが久米大門(うふじょう)である。久米大道(現在の久米大通り)の北西側である反対側には西武門(にしんじょう)があった。西武門交番や西武門ビルにその名を残している。大門(うふじょう)の名もビル名として泉崎ロータ…
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沖縄電気軌道(戦前の路面電車)

沖縄電気軌道→沖縄電気 大正3年~昭和8年 戦前の那覇には鉄道があり、崇元寺から首里を経て与那原まで通っていたと聞いた事があり、長らく私はそう信じこんでいた。首里から与那原は山越えのルートであり、少しおかしいと感じていたが特に調べる事も無く時が過ぎ去っていった。最近になり、この時の話を思い出し調べてみるとかなり違っている事が分かった。…
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