射的場

古い地図を見ていると射的場の文字が見えた。射的場 私の文字から受ける感覚は夜店や温泉地にあるおもちゃの鉄砲でコルクの弾を人形や景品に当てる遊びと思っていた。それにしても遊びの射的場にしては大きすぎる。明治時代は本物の銃を使う射撃場の事を意味していたのだ。地図上の射的場は細長く白い部分が浮き上がって見えかなり目立っている。今回は現在の地図からは消えてしまった射的場を巡ってみる。

夜店の射的
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東京共同射的会社射的場
向ヶ岡弥生町にあった東京共同射的会社射的場は明治10年(1887)に警視局(現警視庁)の射的場として開設された。明治15年(1883)には宮内省所轄の射的場となり、その年に皇宮地附属地の東京共同射的会社射的場となった。設立時の発起人には西郷従道、山田顕義などの名が見える。現在跡地は東京大学浅野地区と本郷地区に挟まれた住宅地となっており、東京大学の敷地に細長く突き刺した形になっている。

東京北部 明治16年測量 5千分の1

東京大学工学部のある浅野地区の北西側角にはこの地で初めて発見された弥生式土器の碑が建てられている。弥生式土器の発見された場所ははっきりせず当時立ち入り禁止だった射的場の中だったのではないかとの説もある。また北側の言問通りの弥生坂はまだ射的場のあった時は出来ていなかった。弥生坂が開設されたのは明治28年(1895)で、言問通りが延長となった。何でも江戸時代坂下に幕府の鉄砲組の射撃場があったことから、この弥生坂は別名「鉄砲坂」ともいう。射的には縁の深い土地柄であったようである。そして、明治21年(1888)には東京共同射的会社射的場は大森に移転している。

射的場跡南西側
「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑

大森射的場
大森射的場のあった場所は大田区山王2丁目で大森駅西側の神社の脇の階段を登った所にある。跡地はテニスコートとなっており、入口付近の駐車場の角には「日本帝国小銃射的協会跡」の碑がある。この射的場は明治22年(1889年)から昭和12年(1937年)ごろまで使用されていた。</FONT><FONT size="-1">敷地は窪んだところにあり谷間に作られた様で当時の状態が想像できる。
明治32年(1899)明治天皇の御下賜金200円を基金に東京府荏原郡大森村に土地を購入し日本帝国小銃射的協会が設立された。
大森射的場は周囲の住宅化により昭和12年(1937)に横浜鶴見の東寺尾に移転している。

東京西南部 2.5万分の1 大正6年測図
大森テニスクラブ
「日本帝国小銃射的協会跡」の碑

陸軍射的場(青山)
旧青山南町から旧麻布竜土町にあった陸軍射的場である。現在は住宅が建ち並び射的場があった痕跡はない。近くには第一師団歩兵第一連隊現在は東京ミッドタウン。二,二六事件の第一師団歩兵第三連隊があった。

射的場跡東側

戸山射撃場
旧陸軍の戸山学校射撃場であるが上記地図の大正5年では射的場のことばはもう使用されていない。明治42年発行の1万分の1の地図においてもやはり射撃場となっている。戸山学校射撃場の出来た時期は不明であるが明治末頃にはすでに射的は使われなくなったようである。同時期の地図で射的を使用している大森射的場は明治21年の設立である。明治21年以降から明治42年までのあいだで変化があったようである。

東京西部 2.5万分の1 大正5年測図
戸山学校 戸山射撃場跡 現戸山公園

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