沖縄そば むかし地図

沖縄そば
沖縄そばの歴史は支那そばの伝来と共に始まったようである。それが沖縄独自の発展をとげ、今日の沖縄そばになったのである。沖縄そばがまだ支那そばと呼ばれていた頃の店を大正8年の地形図に載せてみた。

大正8年測図 2.5万分の1 地形図から
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始めて那覇に出来た店は福永義一氏の「支那そばや」であった。大阪から清国人の調理人を雇い、那覇市警察署下り・肥料会社裏で営業を開始した。支那そば・支那料理が店の品目であった。そば専門では無い様であるが通称「唐人そば」と呼ばれていた。明治35年4月9日付けの琉球新報に開業の広告を出している。当時那覇警察署は東町の親見世跡に位置していた。その後警察署は山形屋になっている。この店の具体的位置は不明である。「下り」とは南側の通りを指すのであろうか。肥料会社裏とはどこであったのであろうか。
明治35年(1902) 新聞広告
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沖縄で始めてのそば屋の「支那そばや」の新聞広告による住所の那覇市警察署下り・肥料会社裏とはどこであったろうか。少し妄想をたくましく推定してみる。南下などの語から下りを南側の県庁前通り古くはお仮屋通りと呼ばれた道とする。戦前の古写真を見ると 勧業銀行那覇支店北隣にトモエ肥料「喜屋武商店」がある。この店の裏とすると東町1丁目12番地(昭和4年の住所)辺りが相当するようである。大正11年に日本勧業銀行那覇支店となった事から考えると写真の時代はそれ以降となり時代は明治35年と大正11年で少しずれるのであるが肥料会社はそれまで存続していたと考えればこの説は成り立つと思う。無理であろうか。
那覇西乃前通り 坂元商店絵葉書
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看板拡大図
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東町1丁目12番地の位置
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明治38年唐人そばで奉公していた比嘉牛がベェーラーそば「比嘉店」を前毛で開業する。唐人そばとはおそらく警察下の唐人そばと思われる。卵のヒラヤーチーをのせるなどして有名になる。ベェーラーとはおしゃべりの意である。
明治40年10月に「観海楼」の開業が新聞広告に出ている。この店も支那そば・支那料理各種を提供していた。福州の料理人張添基さんを使い、前の毛に出店していた。この店も唐人そばと呼ばれていたようである。明治40年に辻の前之毛で「観海楼」と「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利したとの記事が見える。

石門通り角の「森屋」は鹿児島出身の森さんの開業である。広告のメニュー内容から見ると日本そば屋であるが支那そばも出していた。私見であるが和風のかつお出汁とシナソバの豚を使用したスープが融合した沖縄そばの汁の原型はここにあるのではないかと思っている。「森屋」は明治40年ころにはすでに営業していたという情報もある。明治43年に「森屋」の広告があることからそれ以前から営業していた事がわかる。大正4年の新聞広告では琉球そばの名称を使っている。広告の住所表記は那覇石門角となっている。森屋の通称は「森そば屋」。東恩納寛惇の説では沖縄のそば屋の最初としている。昭和初めの地図に森そばや(三角)の表記があるが大正14年に「森屋」は廃業し、「三角屋」を開業した吉本氏にそば屋を譲っている。吉本氏は大正14年に県下最大の二階建ての食堂「三角屋」を開業している。(昭和2年(1927) 三角屋開業 、吉本氏の店。店名を改称。)の記事がある。おそらくこの時まで「森屋」の店名で営業していたものと思われる。戦後は国際通りの三越近くに「三角屋」の名で再開している。

「ウシンマーそば」は大正2年頃の開店。辻の元尾類(ジュリ)が始めた店でそばの具に初めてカマボコとショウガをのせて人気を得た。住所は石門交番所隣とある。昭和21年(1946)「うしんまやそば」として丸国マーケット裏で再開している。
店の位置は新聞広告では石門交番所隣、他に那覇市上乃蔵町、新天地裏などの情報がある。そして大胆に店の位置を推理してみると、明治38年唐人そばで奉公していた比嘉牛がベェーラーそば「比嘉店」を毛の前通りに開業している。「ウシンマーそば」は「うしお母さんのそば屋」の意味である。この「うし」は比嘉牛からきているのではないか想像してみた。つまり「ウシンマーそば」はベェーラーそば「比嘉店」と同じ場所なのではないか。ベェーラーそば「比嘉店」の閉店時期は不明であるが「ウシンマーそば」は「ベェーラーそば」の後を引き継いだのではないか。閉店時期と「ウシンマーそば」を始めたという元ジュリの名が判明すればこの問題は解決に近づくのであるが。

大正4年6月「不勉強屋」で支那そばを琉球そばとして表示。那覇警察署長の指示だと云う。この店も森屋と同じく和風のそば屋と思われ、支那そばとは分離しつつある様子が伺われる。「不勉強屋」は大門前通りで営業していたが具体的位置は不明である。

「ゆたか屋」大正9年頃の開店。大正15年頃まで続いた。そばのだしに改良を加え現在の沖縄そばに近いスープを作る。スープを醤油味から塩味へ変え、ヒットさせる。具にはシシ(肉)や蒲鉾をさいの目に切って上にのせていた。

「井筒屋」 森そばで修行した新里有一郎氏が波の上通りに「井筒屋」を大正9年に開業。戦後は牧志通り国際劇場横で営業。

「万人屋」 昭和4年、中里誠吉氏が市役所前に開業。大門通りにあった。サイドメニューに、いなり寿司をだし人気店になった。戦後も那覇市役所前で営業とある。市役所は戦前と戦後では位置が変わっており本当に間違い無いのであろうか。やや疑問が残る。市役所前が確かだったにしても、那覇市役所は昭和20年安里八幡宮の民家に移転。昭和22年牧志公設市場敷地に移転。昭和23年開南に移転。昭和24年開南から牧志町(4区)に移転。昭和28年天妃小学校へ移転。昭和40年現市庁舎落成。このように戦後は移転をたびたび繰り返しており、戦後のどの年代の市役所前だったのかは不明である。

沖縄そばの始めは明治35年の「支那そばや」明治40年の「観海楼」などの中華料理屋で出す支那ソバと明治末頃の「森屋」を代表とする日本そば屋で出す支那ソバがあった。中華系ではこの他にベェーラーそば「比嘉店」がある。日本そば系は他に「不勉強屋」、「丸福店」、警察署隣の「丸万」、森屋で修行した「井筒屋」、そして森屋の後を引き継いだ「三角屋」などがある。東京などでも私の子供頃(昭和30年代頃)日本そば屋で中華そばがメニューにあったのを覚えている。味は現在のラーメンとほぼ同じで赤い渦巻のなるとが乗っているのが違うくらいである。沖縄のような独自の進化はなかった様である。現在の沖縄そばのスープに近い「ゆたか屋」に発展する。日本そば屋のかつお出汁と中華そば屋の豚のスープが出会い、沖縄そばの原型が出来たのではないかと想像している。その後各店が競い合い県民に好まれる味へと進化し沖縄そばとなったと思われる。沖縄そばは支那ソバから始まり、日本そばの店で育てられ独特の沖縄そばへと発展したのではないかと思われる。

沖縄で琉球そばの名称が現れるのは大正4年6月「不勉強屋」からと思われる。新聞広告では大正7年の広告となる。大正4年の新聞広告の「森屋」、大正5年(1916) 新聞広告「丸福店」などで確認できる。これらの店は広告では内地そばと表記するそば粉で作る日本そばを出していた。これらの店が支那そばを作るに当たり和風のかつお出汁と中華の豚のスープが融合し沖縄そばの出汁に近いものできたと思われる。麺も変化があった可能性がある。「森屋」は東恩納寛惇の説では沖縄のそば屋の最初としている。この辺りから支那そばと琉球そばに表記が分離したのではないかと思われる。ただこの琉球そばの名称は定着せず、復帰後に沖縄そばの表現が顕著になったと思われる。沖縄では単に「スバ(そば)」と呼ばれていた様である。

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