むかし那覇2

那覇 薩摩藩在番奉行所

薩摩藩在番奉行所跡の史跡碑
画像

大正9年までの沖縄県庁
画像

解説文より
在番仮屋(ざいばんカイヤ)、大仮屋(ウフカイヤ)ともいう。 1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年までの250年間、薩摩藩による琉球支配の拠点となった。在番奉行や附役(つけやく)など約20人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。 1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となり、1879年(明治12)沖縄県設置(廃藩置県)で仮県庁、1881年(明治14)から県庁となり、1920年(大正9)に泉崎(現在地)へ移転するまで県政の中心地となった。
 奉行所の前は「道ぬ美らさや仮屋ぬ前(ミチぬチュらさやカイヤぬメー)」と唄われ、那覇四町(なはユマチ)の大綱引もこの通りで行われた。上の絵図「那覇綱引図」の中央が奉行所であり、見物する役人たちも描かれている。

仮屋ぬ前
画像

在番奉行所跡
画像


那覇 三重城

琉球貿易屏風
画像

那覇港入り口にある三重城は16世紀後半に倭寇への防御のためつくられたという。その対岸にも対をなすように屋良座森城がつくられている。上図は琉球貿易屏風の三重城部分を抜き出したものである。港には多くの船が描かれ古琉球時代の那覇港のにぎわいが伝わってくる。三重城は海上に延びる長堤で那覇港を彩る印象的な建造物であった。当初は城塞であったが、後には船旅の見送りの場所ともなった。琉舞の「花風」で三重城はその舞台となっている。
琉球八景「臨海潮聲」
画像

図は江戸の浮世絵師葛飾北斎が描く琉球八景「臨海潮聲」である。江戸時代琉球は将軍の代替わりに慶賀使を送り、中山王つまり琉球国王が即位すると謝恩使を江戸に送った。これを琉球では「江戸上り」といった。使者の行列の服装は中国風であり、奏楽も異国情緒豊かな中国風のものであった。この使節の江戸までの行列は幕藩時代の多くの人々に目に触れ琉球への関心は深まったのである。北斎の琉球八景もそのような大衆の好奇心に対する一端と理解できる。

明治初年の那覇市街図部分 沖縄歴史地図から
画像

陸地測量部 大正12年発行 5万分の1 「那覇」
画像

現在図
画像

三重城は明治初年の復元図を見ると古琉球時代と変わらず海上に突き出た長堤として姿を留めている。しかし大正期の地図を見ると三重城の東側は埋め立てられ陸地となり、突堤の雰囲気は既に失われている。そして「西の海」と呼ばれた部分も埋め立てられ現在は西3丁目となりホテルやガスタンク、バスの操車場、下水処理場などができている。

画像

旧南海王国琉球の風(スタジオパーク)の海岸に復元された三重城。堤の途中に何カ所か有った橋も無く少し小振りであるが雰囲気だけは味わえるかと参考のため載せています。

画像
画像
画像


那覇 夫婦岩(みーとじー)
夫婦瀬公園内の夫婦岩
画像

大正10年測図 5万分の1 那覇 陸地測量部
画像

那覇の海岸線は近世以後埋立てられ、たえず変化を見せている。若狭にある夫婦岩は大正の頃の地図でもまだ海中に存在している。その当時夫婦岩の近くは塩田が多く浅瀬であった。公園名も夫婦瀬としてその名が残っている。公園内に残る夫婦岩の下部は海水で浸食されたあとがあり、かつては海の中にあったとすぐに理解できる。今でも潮が引いた後の砂浜にぽっかりと浮かんでいるかのようである。

仲島の大石(なかしまのうふいし)

那覇バスターミナルにある大石
画像

沖縄歴史地図より 明治初年の那覇市街図
画像

泉崎村の仲島は球陽八景にも描かれた名勝の「仲島蕉園」があった所で現在地名としては消えてしまっている。ここには明治の頃まで仲島遊郭があり、絵地図にも遊所と表記されている。現在の「大石」は明治期の埋立で完全に陸地の中にあり、泉崎の那覇バスターミナル構内となっている。ここは戦前の沖縄軽便鉄道の那覇駅のあった場所でもある。

むかし那覇 へ

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック