沖縄の馬場2

古波蔵馬場
馬場は城岳小学校前にあり、通りは「城岳馬場通り」という。18世紀後半作成の「琉球惣絵図」に載っており、王朝時代に開場している。ガジュマル脇にある馬の石像は実物大であると説明があるが信じられない位小さい物である。当時の在来馬は現在の馬に比べると小さかったのは分かるが本当にこの大きさであったのだろうか。これに人が乗れるのか疑ってしまう。
古波蔵馬場
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古波蔵馬場
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古波蔵馬場 解説文
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解説文
「この地は、かつて古波蔵馬場と呼ばれ、古波蔵村が近隣の国場村や与儀村と馬摸合を組織して月に一度、馬勝負(ンマスーブ)をしていた場所です。勝った馬は、島尻郡の大会や那覇の潟原(カタバル、干潟のこと)で年に一回行われた全県大会に出場していました。
馬場(ンマウィー)は幅10㍍前後、長さ200㍍ほどで、両側には大人3人でもかかえきれないほど大きな松の並木があり、壮観だったそうです。勝負には宮古馬を使い、早足(足組す/デシクマスン)で競っていました。この馬のオブジェは、当時の写真を元に実物大で造られています。また、歩道の大きなガジュマルは、この場所で数十年という長い年月にわたって地域の人達に愛され育てられてきたものなので、那覇市の景観資源として保全されています」
        1994年3月   那覇市


早足(足組す)とは、競馬といっても馬をとばすのではなく『脚組す』といって早足(一方の脚は常に地につく走法)で勝負させた。中間速で、走りの美しさを競った。
馬摸合は乗馬奨励のために組織され、一定の金額を出し合い集まったお金を順番に受け取る金銭互助組織である。


綾門大道馬場
守礼門から西側に向かって下る道路を「綾門大道」という。守礼門は別名「上の綾門(アヤジョウ)」といい、これに対して「下の綾門」と呼ばれる中山門が約500m先にあった。「綾門大道」は琉球王国第一の道とされ、かつてはこの通り沿いに王家の別邸などが並んでいた。また、国をあげて行われる大きな祝時には、綾門大綱(アイジョウウンナ)と呼ばれる綱ひき行事が行われた場所であった。かつての綾門大道沿いには市場が設けられ、朝夕多くの人々が行き交い、賑わいをみせていた。この綾門大道では旧暦の1月15日に綾門競馬がおこなわれた。琉球の競馬ではンマハラセー(馬走らせ)といい、速く走るのではなく、走る姿勢や、足並みの美しさを二頭で競う競馬であったが綾門競馬ではそれとは違う、速さと勇気を競う競馬があった。明治初め頃までは、存在していた中山門から、守禮の門までを十数頭が集団で走り抜ける競馬で、こちらは純粋に速さを競う競馬であり、ブリュンマ(群馬)と呼ばれた。この綾門競馬も明治39年で打ち切られ平良真地へ舞台を移している。

綾門大道馬場
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綾門大道馬場
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綾門大道沿いにある玉陵(たまうどぅん)
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那覇市の解説より
玉陵は、1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となりました。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋となっています。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体のつくりは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造建造物になっています。墓域は2.442㎡。 沖縄戦で大きな被害を受けましたが、1974年から3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取り戻して今日に至っています。 昭和47年5月15日に玉陵墓室石牆(たまうどぅん ぼしつ せきしょう)が国指定有形文化財建造物に、玉陵は国指定記念物史跡に指定されました。また、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されました。

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